片想いのメロディー
僕が時々寄らせて貰っているBARがある。
最寄り駅は、東京でも屈指のターミナル駅であるが、実際にはその駅からは 10分弱ほど歩く。
巨大なデパートメントストアからも程近いのであるが、エアポケットのように 忘れ去られた
ような空間にぽつねんと佇んでいる。
店主は、音楽、とりわけブラジル音楽に造詣が深く、ラジオ出演したり、ライナーノーツに
寄稿したり、時々Twitter上で年上で魅力的な奥様のご自慢をされたりしている。。
初めてこのお店に寄らせて貰ったのは、恐らく4-5年前だと思うのだけど、店主とある
程度軽口を叩くような仲になったのは、この1年くらいかもしれない。
数週間ぶりに訪れてみると、店の前に巨大な空間がぽっかりと口をあけていて、周囲の
景色がすっかり変わってしまっていた。
巨大すぎてよく判っていなかった目の前のビルが、跡形もなく解体されていたのだ。
遠くの大通りまで見渡せてしまう。
跡地にはホテルが建つという話があるそうであるが、人の流れが変わって、お店の
雰囲気までが変わってしまわなければよいのだけれど、と思う。
ここのところ、ここんちの店主は、刑事コロンボや、ピンク・パンサー、ピーター・ガン
等のテーマをはじめ、一連のオードリー・ヘップバーン主演作の映画音楽で知られる
ヘンリー・マンシーニが、実はオードリー・ヘップバーンに33年間片思いをした挙句に、
オードリーの死後、後追い自殺をしたという話に相当はまっている。
勿論、公的にはマンシーニは病死ということになっているのだが、実は誰もが知って
いる話だという。
そのお店のカウンターに座って、微炭酸の白ワインを飲みながらボーっとする。
ん?マンシーニじゃねーか?
そう思って店主に尋ねる。嬉しそうにジャケットを持ってくる。
『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリー役のオードリーが、ジャケットの上
からこちらを見つめている。
マンシーニの書いた旋律にはいくつも印象的なものがあるけれど、例えばこの映画の
『ムーンリヴァー』なんて奇蹟的な旋律である。
店主に、マンシーニの恋の話をしてみると、益々喜んで、今度は『シャレード』のジャケットを持ってきた。
マンシーニが33年間の片思いをしている間、オードリーは2度結婚し、その後
別の男と同棲したまま癌で亡くなっている。それをみつめながら、どんな気持ちで
彼が次々と歴史に残る名曲を書いていった のかに、店主は想いを馳せている。
『本当にタイプじゃないオトコだとさ、女性が失恋した時とか、目の前にいて
親身に相談とかに乗っても、絶対にその女性は振り向いたりしないよね?』
的な話をして男同士で盛り上がる。
不思議なもので、永遠に手に入らない相手というものは、思えど想えど、永遠に
手の届かないところにいる。
でも、成就しない恋こそが、生涯記憶に残る恋である、といういう話もある。
"最高のロマンスは成就しなかったそれである" ノーマン・リンゼイ
もうしばらくの間、このBARに行くと、片思いのメロディが僕らの胸を締め付けて
くれることだろう。
渋谷 バール ボッサ bar bossa
さよなら、こむらさき
仙台の繁華街と言えば、ショッピングなら一番町、そして夜の歓楽街は国分町である。
そしていくつもあるラーメン屋だが、特に昔から仙台で夜の〆のラーメンと言えばこむらさきの
天下一品ラーメンである。
これは他の天下一品ラーメンとは実はレシピが違っており、当然味も違う。初めて食べた時は、
戻しそうなくらい不味いと思うのだが、それから数日するとあ?あれは実は美味かったんじゃない
のか?とふと思い出す。
恐る恐る行ってみると、今度はそれが美味しく感じるのである。
そして隣の元祖支那そば家はにぼしの出汁の美味しいラーメン屋。潔く、メニューは【支那そば】
のみ。通は梅干を合わせる。
この2軒が、とにかく僕がいた頃の仙台の夜では鎬を削っていた。
しかし、今回行ってみて驚いた。
支那そば家は店内の調理器具を運び出しているところだったし、こむらさきに 関していうと、
既にシャッターが閉められ、貼り紙がしてあった。
何だろう?と思って近づいてその貼り紙を読んでみた。
この写真じゃ小さすぎてわからないだろうから、拡大したものをこちらに載せておく。
こむらさきの千田社長のメッセージだが、お人柄と、お店やお客への愛情が 伝わってきて、
なかなか辛い。
心に響く文面である。。是非読んで、しみじみとして頂きたい。
しかし、本当に驚いた。
震災でこんなことになっていたとは。
言われてみれば、ビルにはロープが張ってあり、崩壊の危険があるから、傍に近寄らないように
との貼り紙がしてあった。
実はこの並びの数軒は店先こそ分けてあるが古いひとつのビルである。
今回の震災で、崩壊の危険があるビルは、警察なのか消防なのか知らないが、とにかく立ち入り
禁止の貼り紙をされていた。
一番町に周ると、サンシャインボウルという僕らが学生時代に何度も遊んだ、 ボーリング場の
入ったビルが、崩壊の危険あり、という貼り紙(赤紙)とともに やはり紐が張られていた。
写真でもわかる様に、ビルの中央を横一文字に大きな皹が貫いていた。
三越は、立ち入り禁止でこそなかったが、正面の壁が崩れたのか?工事用のシートに覆われて
いた。
前日行った、海岸沿いの景色だけではなく、繁華街のど真ん中でも、僕らの記憶の街が、一部
その姿を消そうとしてた。
もう、国分町で天下一品や支那そばを食べることは無くなってしまうのかもしれない。
そんなことを考えながら、仙台駅の新幹線ホームへと向かった。
帰還
閖上を後にして、仙台へと帰ることにした。
来る時とはまた別の、学生時代に何度も通った道を通り、その変わり果てた風景を見ながら。
貞山堀を越える橋を渡ると、船がその船底を見せて朽ちていた。
閖上の惨状にただただ圧倒され、言葉を無くしていた僕は、もうその船を見ても驚かなかった。
あたりは不気味なほどの静寂に包まれていた。
橋を渡りきった土手の上からは、かつての田園風景がそれこそ見渡す限り一面に見える。
見える限り全てまだ瓦礫や泥水の溜まった田圃が残っている。
それをみて思った。
この広大な地域をもう一度かつてのような緑溢れる風景に戻すにはどれほどの期間と費用が
かかるのだろう、と。
想像を絶する。
そして、それが、太平洋岸に300-500km近く続いているのだという。
「日本は強い国。頑張ろう。」だとか「ひとりじゃない。」というTVCMを何度も見かける。
芸能人に悪意が無いのはわかっているのだが、しかし、本当にああやってTVで呼びかける
ことで元気を貰える人々もいるのだろうか?
圧倒的な惨状に、あの台詞が逆に軽々しいものに感じられてしまう。
そして、本当に困っている人達は、まだTVだって観ることができていないかもしれないのだ。
あの膨大な広告費用をこちらに振り向けられないだろうか?
あのひとことでは、何も解決しない、そんな風にしばらくそこに留まって、見るとは無く
その広がった風景を見て感じた。
クルマを下りて、土手を暫く歩きながら、その場の風と空気を感じていた。
足下を見ると、まだ地割れも何箇所かに残っている。
被災地の皆さんの生活が一日も早く心休まるものになる事を願って止まない。
そして、自分は今回の旅で感じたこと、考えた事を忘れないようにしよう。
そして、実際に自分の実家や、父の実家に起きたことに対処していかなければならない。
そんな風に考えていた。
今回、この津波の被災地について幾つかの写真を載せたり、感想を書いたことが誰かの
神経を逆撫でしたかもしれないし、するべきではなかったことなのかもしれない。
自分では良くわからない。
しかし、感じたこと、考えたこと、見たことを残しておきたかった。
重い写真、哀しい写真はここで終わりです。
ここまでお付き合い下さった皆さん、ありがとうございました。
また、僕の通常の日記に戻れば、能天気だったり、刹那的だったり、非生産的だったり
するかもしれません。いや、きっとします。
そのギャップが不快になるかもしれません。
しかし、以前にも書きましたが、blogの世界が、その全てではありません。
具体的に書かない事もかけない事もあるかと思います。
そのバランスが難しいけど、また今後も徒然と見たことや感じたことを、できるだけ、
リアルタイムに書いていきたいと思います。
最近、このリアルタイムってのが全然できてないけど。