戦争と恋愛に...
「それでも、まだ好きなの。こんなに誰かを好きになったことないの。」
そういうと、彼女の目に涙が一気に溢れ出てきた。
おいおい、そうやってここで泣くとさ、泣かしてるのが俺みたいじゃん!と、内心思いつつも声に出来ない僕。
2人は、黒くて大きな箱を伏せたようなビルの中のBARにいた。
彼女は若くして職場結婚して働き続けたものの、程なくして旦那さんに仕事関係で彼女も知っている恋人が出来たことが、判り離婚したという過去がある。
僕らが知り合ったのはその後である。
そんな経緯も聞いていたので、彼女の恋愛観は独身×独身であって、既婚者との恋愛には嫌悪あるいは憎悪の感情こそあれ、許容は無いと思っていた。
しかし、彼女が辛い恋愛をしているというのを初めて聞かされた時~それはもう3年くらい前になるが~それが既婚者との恋愛だとは露ほども思わなかった。
しかし、そこには裏があって、「妻と別れるから、付き合って下さい。」端的に書くと、そういう口説き文句で始まった恋だったらしい。しかし、何時まで経っても、別れるというコミットメントに進捗はないまま、5年目を迎える時に、「今年の私の誕生日まで待つわ。」と彼に宣言したのだという。
そして、結局その期限までに約束は果たされることはなかったという。【戦争と恋愛にルールは無い】という言葉が、古くからあるけれど、僕はこの言葉には違和感がある。
相手のことを愛していれば、そこには厳然たるルールがあるだろうし、そこまで思っていなかった場合、その「火び」を「恋愛」というには収まりの悪さを感じるが、敢えてそう括ったとしても、やはりそこにはルールがあると思う。
昨年来、周囲で「結婚を前提に」という言葉で他のオトコ達から難攻不落と見られていた女友達が数名、傍目には???という男に籠絡されていくのを見ていた。
しかし、残念ながらいずれも数ヶ月以内に別れてしまっている。で、別れた後は一様に
「冷静になってみると、あの男は本当に最低で嘘つきだった。別れて良かった。」
という女性たちがほとんどである中、この彼女は別れて1年経ってもまだ涙を流している。
違いは、他の子達が、愛想を尽かして別れているのに対して、こういう理由の人たちは、嫌いではないけれど、どうしても一緒になれないという結論を前に、感情を遺したまま別れているから、生々しいのだろう。
このblogの左上には、いつも誰かのアフォリズムを掲載しているが、かつて
"最高のロマンスは成就しなかったそれである"
という、ノーマン・リンゼイの言葉を紹介したことがある。
きっと、そういうことなのだろう。。
長谷【一花屋】
2011年の震災で半壊となってしまい、結局取り壊してしまったのだけど、 福島に僕の父方の祖父母が建てた家があった。敷地は100坪以上あったので、東京だったら大したものだと思うのだけど福島のその界隈では、取り立てるほどの家でもなかった。
しかし、そこは子供の頃は、正月、春休み(彼岸)、GW、お盆、祖父の命日、秋の彼岸、冬休みと兎に角連れて行かれたし、何よりも2年ほど祖母と一緒に暮らした家でもあった。
ある時、祖母の実家や祖父の実家へ行って驚いた。間取りがほぼ同じであったのだ。親戚の家も大概同じか、左右反転したような造りで、どこの家にも奥に庭に面して縁側と和室があった。
そこで子供の僕は、従兄弟たちと相撲のまね事をしたり、かくれんぼ
をしたり、永遠に子供の時間が続くのでは、と思って遊びに遊んだ。あの頃、すぐ近くに原発があるなんてことは全く考えていなかった。
平日の昼間に、鎌倉の外れのひっそりとしたカフェ、それも意味不明の
【手ぬぐいカフェ】に集う人たちは、学生と主婦、だったろうか。
置かれている、或いは飾られていた、モノたちにはそれなりにこだわりがあったのだろうけど、僕的にはもうこの普請そのものだけで十分にアピールを感じるものだった。
最初こそ、暑さを駕ぐために、冷たい柑橘系のジュースを頂いたのだけど 時間の経過とともに、濡れた服は少しずつ僕の体温を奪いとり、そして乾くにつれて僕の何かを一緒に庭、そして空へと放射していった。
気がつくと、僕は震えるほど寒さを感じていて、思わずミルクティーを頼んだ。
そして、運ばれてきたのは、菩薩のような線画が描かれた、取っ手のない、湯呑みのような器に淹れられたホットミルクティーだった。今度は昼の明かりが徐々に消え入るにつれて、そのミルクティーが僕に体温と力を与えてくれたようだった。
Salon de Shimaji
今回、バーマンに扮した、文筆家の先生は、この日も目の醒めるような
ブルーのジャケット。
そして先日の大井先生との対談の時にも言及していた髑髏のリングを
はめていらっしゃる。
これは、自分もいつか必ず死すべき存在であることを忘れるなという
ということを喚起させるための、シマジ教の秘密のリングだと仰る。
まさに、ラテン語のmemento moriが戒める内容である。
この写真の奥の彼の右手の指に鈍く輝く髑髏が写っているのが
おわかりだろうか?
そして10種類くらい?あるコースターもブルー。
それぞれに白い文字で、シマジ語録言葉が印刷されている。
12種類あるから、10人くらいで来ると揃うんだけどね、とのこと。
こちらの公式グラス?と島地さんが勝手に決めた(笑)のはドイツの
Zwiesel(ツヴィーゼル)社のSCHOTT ZWIESEL(ショット・ツヴィーゼル)
シリーズの中でも10GRADというその名前の通り、グラスの底が10度傾い
たものである。
傾いたグラスをみて、身体がグラリと揺れたと思ったが、それは僕が
早々に酩酊したわけではなく、このグラスに秘められた遊びゴコロに
よるものである。
美女がこれで、揺れたと錯覚したならば、しめたものである。
そして、島地さん自らが作ってくださるスパイシー・ハイボールを
堪能した。
先ほどのグラスに大きなアイスキューブを3つ入れ、そこに10年ものの
タリスカーをシングルより少なめに注ぐ。
その上から、山崎の天然水で作ったソーダ、Premium Soda from Yamazaki
を静かに注ぎ、ステアは決してしない。
愚かなる僕は、しかし、知ったかぶりをしないだけの謙虚さを以って
バーマンに質問した。何故、ステアしてはならないのですか?と。
ステアすると、この微炭酸のガスが抜けてしまい、香りも飛んでしまう
から。タリスカーの比重が軽いので、待っていれば、ゆっくりとソーダの
上に上ってくるのでそれを、待つが良い、と丁寧に教えて下さる。
実際にステアすることのオリジンである娼婦たちのエピソードは、
現在発売中のPenの店主の文章に詳しい。
仕上げに、サロン・ド・シマジとタリスカーのダブルネームのハンド
ミルで、黒胡椒を3度挽いて、グラスに振りかける。
味わった瞬間、タリスカーがほのかに甘く立ち上がったように感じた
くらいにこの胡椒のピリ辛さが、ウイスキーの味を逆説的に引き立てている。
ここで、色々なお話をさせて頂きつつ、色々なものを見せて頂き…
いや、ここにそれを書くのは野暮であろう。
ほんの束の間、僕は憧れていた方を独り占めするのだった。